京都の時代祭が2022年、3年ぶりに実施されましたので、その様子をご紹介します。次回は2023年10月22日となりますが、またいつかのご参考になれば。
時代祭とは?
2022年は土曜日にあたりましたが、曜日指定ではなく毎年10月22日に行われている『平安神宮』のお祭りです。
第50代桓武天皇と第121代孝明天皇の御祭神が『市民の安やかなることを親しくご覧になる』ための神幸列にお供をするという形で、京都の伝統工芸技術の粋を集めて動く歴史絵巻を行列で披露するものです。
先頭を行く名誉奉行・最後に近い形の神幸列の間には歴史を遡る形で絵巻が繰り広げられます。
行列は御所から御池通・三条通を経て神宮道を平安神宮に向かって進む形となっています。
有料観覧席は大きく3箇所
有料観覧席は大きく、3箇所に別れており、スタート地点の御所、最終地点の平安神宮前と広い御池通となります。
御池通はビル街ですので、雰囲気としては、もちろん御所付近や平安神宮が素敵だと思います。
が、故に大人気。御池通の方が有料観覧席の購入の出足が遅く、最前列を確保できましたので、私は御池通りの席を購入しました。(御池通は発売からしばらく経っても通常予約で最前列が空いていました)
(観覧席の前後を表すのはアルファベットでAが最前列です)。
販売サイトは時代祭が終わった今はもちろんありませんが、京都観光NAVIのサイトに掲示されています。
御池の有料観覧席にいく価値は?
有料観覧席は、御池通にはA・B・Cの3列でいくつものブロックが並んでいます。お値段は3,500円でパンフレットと袋がついています。
写真は行列が通りかかる1時間前ぐらいのものですので、まだほとんど人はいません。
2022年の土曜日催行の状態ですが、有料観覧席以外でも御池通には立って見ることのできる場所がかなりありますので、少しのぞいてみたいという程度であれば、無料でも充分見学可能です。
B列・C列は後列となりますが段差がないため見えやすさという意味では立ち見の方が最前列で見ることのできる可能性はあるかもと思えるぐらいのスペースはありそうです。
ただ、時代祭の列は長く、そしてゆっくり。列の最初から最後まで見るためには、1時間半以上かかります。止まっている時間も多いため、全てを見るのに指定された椅子があるというありがたみはかなりあります。
ただ、このあと行列の写真をご紹介しますが、御池通は足下はアスファルト・背景はビルですので、時代祭らしい写真を撮影する目的であれば、御池通以外の観覧席を取った方が良いかなとも感じました。
『POLICE』京都府警察 平安騎馬隊
行列を、先導の車両が通過したあとは、京都府警察の平安騎馬隊の方が通られます。
京都府警察の騎馬隊は、時代祭の先導以外にも、観光地のパトロールや学童の安全見守りなど、通常より馬に騎乗されて行われているようです。
名誉奉行
歴史絵巻は長いため、数話に分けてご紹介します。
また、有料観覧席で配布されたパンフレットの情報を参考に書かせていただいております。
まずスタートは時代を遡る前の名誉奉行です。知事・市長・府議会正副議長・商工会議所会頭・時代祭協賛会会長らを乗せた馬車列となっています。
明治維新時代:維新勤王隊列(1868年頃)
東北地方では、幕府方諸藩の抵抗の続いていた明治維新の時代。その鎮静にむけて官軍に参加した「山国隊」の姿の大烈です。山国体は丹波の山国村から参加していました。
下の写真は御使番。伝令や監察業務を担当する役です。
その後に続くのは楽隊です。笛や小太鼓・大太鼓が時代祭の雰囲気を大きく盛り上げてくれていました。
赤い上着の方が隊長。頭に被っているのは白毛付陣笠を被っておられます。
その後ろの紫の上着の方は『輜重頭』(しちょうがしら)というお役職。この“し“を表す漢字自体が見たことがありませんでしたが、単体で『ほろぐるま』・『にぐるま』と読める文字なのだとか。その名の通り、食料や軍用品の輸送役の長となります。
明治維新時代:維新志士列(1868年頃)
昭和41年に孝明天皇100年祭を記念して加わった列で、明治維新に活躍した志士たちの列。
写真では紹介しきれないほどの有名人に扮した人が登場する列です。
桂小五郎・西郷吉之助・中岡慎太郎・高杉晋作等が次々と列をなしています。
写真は坂本龍馬。京都の伏見で十石舟に乗ると、坂本龍馬がお龍さんと一緒に鹿児島に出発したと言われている新婚旅行の始まりの地がありますね。京都の明治維新時代を表す代表的な方といえるでしょう。
次が旅装の方々。これは急進派の公家で攘夷派の志士と討伐を企てましたが、政争に敗れて長州に落ち延びた際の旅装だそうです。
その後衣装が目を引くのは近衛忠熙。江戸時代から明治時代を生きられたお公家様で、織田信長以降300年越しに没後に正一位の位に叙せられました。
Wikiぺディアにその人物像を表すエピソードがありましたので、引用にてご紹介いたします。
Wikipediaより引用
- 忠熙が生存していた頃、近衛家では3月の桃の節句に雛壇を儲けず、緋毛氈を畳に敷き、その上に雛人形を並べていた。その理由は、内裏雛は一般に天子様を象った物とされるが、天子様は神であり、そのお姿を写すのは不敬であるので天子様であろうはずはない。あの人形は公家を象った物に相違なく、ならば公家のトップである近衛家の人間がそんな物を檀上に飾って下から仰ぎ見なければならない道理はないということであった。ただし忠熙が死んだあとは普通に雛壇の上に飾るようになった。
この後時代を遡っていく内容ついては❷江戸時代-中世に続きます。