京都の時代祭 御池通の有料観覧席最前列から見る『動く京都歴史絵巻』❷江戸時代-中世(2022年10月22日情報)

❶でご紹介しました明治維新より時代を遡っていく時代祭の列。

続きをご紹介いたします。(❶より引き続き有料観覧先配布のパンフレット情報を参考にさせていただいております。)

各項目表題の中の括弧書きの数字は年代を表しています。

時代祭記事を初めから読むには❶からどうぞ。

江戸時代:徳川城使上洛列(1600-1868)

この列は時代祭の最大の行列で、朝廷の重要な儀式の際に将軍の名代として親藩または譜代大名が城使として上洛する際の行列を模しています。

将軍の使いということで、当時は大名行列よりも格式が高いものでした。

徳川城使上洛列

長持

先頭は長持。一旦長持ちを置いて止まったのち、「えいっさー、ほいっとさ」の掛け声と共に誘導されて駆け抜けて行きます。

一旦立ち止まって

「えいっさーほいっとさ」と駆け抜ける長持

大鳥毛(毛槍)

時代祭では空を飛んでの渡し合いを見せ場としている大鳥毛は、大名行列の格式を表すもの。毛槍の色や形で大名を遠くからでも認識できるようにする役割があります。

大鳥毛

大鳥毛の後には弓・鉄砲・長槍が続きます。

城使

その後、目附頭が通り、馬で城使が。被っている笠は陣笠、腰には大刀と小刀を差しています。

城使

ただ、城使は親藩または譜代大名、当時本来、駕籠(かご)に乗っているはずで、その駕籠も行列に加わっています。

城使の駕籠(かご)

江戸時代夫人列(1600-1868)

城使列のあとは、華やかな江戸時代の夫人列となります。

和宮

先頭を行くのは和宮。平安神宮御祭神 考明天皇の御妹君です。5歳の時に婚約されていた有栖川宮との婚約を取りやめ、『公武合体政策』のため16歳の時に同じ16歳の14代の徳川家茂将軍に降嫁されます。が、20歳で家茂が亡くなったあとは出家をされます。

時代祭でのお姿は、御輿入れ前の十二単姿です。

和宮

和宮のあとは徒歩で。大田垣蓮月(女流歌人)・玉瀾(画家)・中村内蔵助の妻(今でいうファッションリーダー)・梶(女流歌人)・吉野太夫(芸妓)と続期最後が出雲阿国です。

出雲阿国は、出雲大社の巫女。上洛して、歌舞伎の始まりと言われている『念仏踊り』を演じられました。

出雲阿国

安土・桃山時代 豊公参朝列(1568-1600)

江戸時代から時代を遡り、次は、豊臣秀吉が関白太政大臣となって度々参内をした時代。

大名と一日晴れ

大名として登場するのは、前田玄以、石田三成、浅野長政、増田長盛、長塚正家です。

この大名が身につけている装束は『一日晴れ』と言われているもので、朝廷参内のときにのみ、官位や家柄にかかわらず許された、華麗なものとなります。

浅野長政

長束正家

牛車

そして、豊臣家が乗るのは牛車。ヤシ科の常緑高木であるビロウの葉で屋根を葺き、御簾なども最高格式のものです。

牛車

安土・桃山時代 織田公上洛列(1568-1600)

もう一つ時代を遡って、織田信長公の時代。

応仁の乱により寂れてしまった京都に皇居の修復や街の復興のために、織田信長公は上洛して尽力します。この行列では、戦国武将の心意気を示すという兜飾りや馬印の特徴を楽しむようになっています。

大幟(おおのぼり)と馬印

織田信長公

柴田勝家

室町幕府執政列(1338-1573)

少し前まで足利氏が逆賊であるとして時代祭では室町時代を飛ばしていたようですが、2007年から新たに加わりました。ただ、足利将軍については、今もフルネームでどなたなのかが示されない形をとっています。

将軍の被っているのは引立烏帽子。着ているのは赤地金襴桐紋様の鎧直垂(よろいひたたれ)で、手に持っているのは弓と鞭です。鎧直垂とは、中世を中心に着られた大鎧の下の衣服です。

足利将軍

室町洛中風俗列

16世紀の室町時代後半、京都の街衆によって催された『風流踊り』を再現しています。『風流』とは人目をひくことや華やかであること。当時は男性が奇抜で派手な衣装で着飾って参加するものだったとか。

この踊りの目的は供養や豊作など、人々の安らかな生活の祈りのために踊られたといい、その後、風流踊りは江戸時代以降の盆踊りの原型となっています。

団扇

鞨鼓童(かっこわらべ)

笛と太鼓

途中、列は前進を停止して、傘の周りで踊りを披露してくれます。盆踊りというより歌舞伎の前身かと感じるキレのある踊りでした。

風流踊り

吉野時代 楠公上洛列 (1333-1392)

吉野時代とは北(光明天皇)の京都と南(後醍醐天皇)の吉野が併立する南北朝時代を南側を正統とする立場側から見た時代名です。

行列は、1333年後醍醐天皇が配流先の隠岐からの還幸の際に、楠木正成が兵庫に出迎えて上洛した時の様子を模しています。

楠木正成公は赤地菊水文錦の鎧直垂を着ており、兜は、三鍬形二方白五枚𩊱兜です。

兜の𩊱(しころ)というのは、兜をぐるりと取り囲むようにつけられた後頭部から首にかけてを守る部位のことです。

楠木正成公

中世婦人列(1180-1600)

ご婦人方の列は、中世全般の様子を表したもの。時代としては、平安時代から桃山時代の様子です

大原女(おおはらめ)

大原女というのは、京都市の北にある大原から京都の街へ薪や炭などを売りに出た女性で、頭の上に荷物を担いでいる姿が印象的です。

大原女

桂女(かつらめ)

北が大原なら西は桂。洛西から鮎や飴を売りにきたり婚礼で祝詞を唱える巫子として訪れたのが桂女です。小袖姿で桂包(かつらつつみ)という白い布を頭に巻く習慣がありました。

桂女

桂女の後に淀君・藤原為家の室が続き最後は静御前。後ろに控えるのは童女です。

静御前

静御前は源義経の愛妾の白拍子。白拍子というのは、巫女の舞を元として、朗詠や今様を歌い舞う芸人のことです。

義経とは相思相愛で、源義経が頼朝に追われる際に、悲しくも頼朝の前で踊ることになった時、源義経への愛惜の念を歌ったといわれています。

静御前

鎌倉時代以前については❸に続きます。

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