❶でご紹介しました明治維新より時代を遡っていく時代祭の列。❷の江戸時代から中世に続いて最終話では鎌倉時代以前をご紹介いたします。
続きをご紹介いたします。(❶より引き続き有料観覧先配布のパンフレット情報を参考にさせていただいております。)
各項目表題の中の括弧書きの数字は年代を表しています。
時代祭記事を初めから読むには❶からどうぞ。
鎌倉時代 城南流流鏑馬列(1192-1333)
平安時代から武者の嗜みとされた流鏑馬(やぶさめ)は動く馬上から的を射るもの。射手武士は狩装束を着て、綾藺笠(あやいがさ)といわれる中央を高く突出させた笠をかぶっています。
行列絵は、北条義時追討のため後鳥羽上皇が近畿10余国の武士を集めた時の一場面を示しています。

藤原時代 藤原公卿参朝列(年代表記なし)
ここは年代表記がなぜか無くなっていましたが、平安時代です。
平安時代は中期以降日本独自の国風文化が成熟しました。
この列では藤原全盛時代に宮中儀式に参加する文官・武漢の夏装束姿を示しています。
猛獣の皮の使用にも位のしきたりがあり、公卿(大臣・納言・参議)は表の皮、殿上人(昇殿を許された人)は虎の皮を使って胡床(こしょう:腰掛けのこと)に座っていたそうです。
公卿は、最高位となる黒の装束をまとっています。
平安時代婦人列
日本の国独自文化が花開いたのはもちろん男性だけではなく女性も。この列は時代祭の歴史絵巻という表現そのものの印象です。
巴御前(木曾義仲愛妾)・横笛(建礼門院の雑仕女)・常盤御前(源頼朝の側室)に続き、清少納言と紫式部が十二単姿で現れます。
さらに続いて、10世紀半ばの装束として紀貫之の女、そのあとは平安初期の女官の礼服姿で小野小町(女流歌人)が。
そして、日本の孤児院の起源をなした女性として和気清麿の姉、和気広虫が登場します。平服姿ですが、この頃まで遡るとかなり唐の文化が色濃くなっていきます。
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押して列の最後は百済王明信(くだらおうみょうしん)。桓武天皇時代の尚侍(ないしのかみ:女官長)。着ているのは平安初期の正装姿です。
延暦時代 延暦武官行進列(782-806)
延暦は桓武天皇の時代となります。794年、平安京の遷都があった年はこの延暦年号の時となります(延暦13年)。
この時代都では、政治の刷新が行われる一方で、東北の鎮静が行われており、列は東北鎮静を終えた征夷大将軍 坂上田村麻呂の行軍の様子を模しています。
行列から聞こえるのはほら貝を吹く音となっています。
延暦時代 延暦文官参朝列(782-806)
列は796年の朝賀の儀式に参列する様子を模しています。服装は身分によって色が定められいるから色とりどり。最高位の浅紫の三位が平安神宮到着後に大極殿で祭文を奏上します。
時代の遡りはここまで。ここからは祭事列に。
神饌講社列
こちらは神前にお供えする神饌唐櫃を先頭に列がなり、騎馬しているのは正副の御饌長(みけちょう)。神事に携わる白い装束で、京都料理組合さんがその役をされているとのこと。
前列
神幸列の直前の列が前列です。御賢木(みかしき)の後に警備役が続きます。
そのあとは、舞人。緑色の舞人が背中に蝶の羽を差し、天冠に山吹の花を挿す胡蝶、赤い色が、背中に鳥の羽、天冠には桜花を挿す迦陵頻(かりょうびん)です。
その後ろには楽人が連なり、祭りの雰囲気を高めます。
神幸列
神幸列が時代祭の行列の中心となる列です。この平安神宮御祭神が市民の安らかなる様子をご覧になる列に他の列がお供しているのが時代祭です。
孝明天皇と桓武天皇の御霊が御鳳輦(ごほうれん)に鎮まっていますので、正面を通る際には見学者は頭を下げてお迎えします。前の御鳳輦が孝明天皇・後ろが桓武天皇です。
後ろを御神体を覆う錦蓋、その後に宮司と御禰宜(神職)が続きます。
神の通り過ぎたのち、馬車で総長が通っていきます。
白川女献花列
神幸列の後は白川女が神前に備えるお花を頭にのせる列が。白川女は比叡山に源のある白川流域で季節の花を売り歩く女性たちのことです。
弓箭組列
時代行列の最後は弓箭組。
丹波南桑田(亀岡)と船井(南丹波)の弓術に秀でた方が組織された弓箭組の子孫と有志が時代祭が始まった時から後鳳輦(ごほうれん)の警護を行なっているそうです。