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本能寺 信長公の刀剣復刻!僧侶様ご案内の特別拝観参加記 薬研藤四郎と実休光忠(2023年7月情報:京都)

『本能寺の変』で有名なお寺で、限定イベント『信長の愛刀復元「薬研藤四郎」「実休光忠」特別拝観』(3,000円/人)の限定イベント言葉が適切かは….)に参加してきました。

現在の本能寺の場所は?

あえて、現在のと表現しているのは、『本能寺の変』で焼失する前の本能寺は京都でも別の場所、堀川二条にあったため。

特別拝観の時にこの移転エピソードにも触れられていましたが、秀吉公の命により現在の地下鉄『市役所前駅』から徒歩数十秒の場所にあります。阪急電鉄河原町駅からは800mほど離れています。

なお、以前訪問したホテル本能寺も敷地内となっています。新しくて綺麗な建物です。

ホテル本能寺日帰りプラン訪問記はこちら(2022年3月)

今や刀剣のイベントは若い女性ターゲット⁉︎

私がこの特別拝観を見つけたのは、京都市運営の京都観光ナビにて、京都訪問日に実施されるイベントが何かを調べていて発見したため。

お寺の特別拝観という繋がりでは、以前知恩院の夜桜ライトアップに参加したことがありますが、その時の訪問者は、かなり大人な年頃の方々で、仏教や日本の風習などにもお詳しい方が多かったイメージ。ですが、今回の参加者(数十人)が集合してみたところ……。なんと、多くは20代か?学生さん?のような年齢の女性陣ばかり。

刀剣がテーマの特別拝観だから年配男性が主軸だと思い込んでいたため驚きました。きっとツイッターなどで、うまく刀剣系ゲームファンの方などに上手く周知がされていたのでしょうね。

僧侶の方も、修学旅行生の方や若い方にお話をしなれていらっしゃる感じで、楽しい会となっていました。本能寺の変の年号語呂合わせはいちごパンツ(1582年)と覚えようというお話が、僧侶さまの言葉で語られるなんて!

※非難ではなくそれだけ楽しいご説明だったということです(念のため)。

そんな僧侶様がお話下さったエピソードをいくつか、ご紹介します。

本能寺の『ノウ』は行書体

このブログでは変換の問題で本能寺と記載していますが、現地で記されている漢字は写真の表記。

本能寺表記

能のヒの部分が違うのですが。修学旅行生の方のタクシー観光のガイド役はドライバーさん。そのドライバーさんが学生に興味を持ってもらうために、よく『本能寺は何度も火災にあったためヒという文字を使わないようこの表記になった』と聞いているとの説明をされているとのこと。

ただ、実はこの話の真偽は不明、この字はただの行書体というだけ…..とお話になっていました。

ただ、本能寺と火災については根拠ないお話ではなく、本能寺の変だけでなく過去に5度の火災にあって4度の移転と7度の建立を経ています。

本能寺はなぜこの地に移設されたのか。

本能寺の変の後、移設された場所は、現在の地下鉄市役所前と表現していましたが、寺町御池。南北に伸びる寺町通りに面しています。

この通り沿いの場所を指定したのは秀吉公。この指定は当時の京の街の都市計画に大きく関連があったそう。

寺町。今でこそアーケードのある商店街風ですがその昔、商店街なんてものがあったわけではありません。秀吉公の計画は『関連ある業種を集約していく』という産業の効率化を目指したものでした。

もちろんお寺も集められました。そして、関連用品である数珠、墨と筆屋、お供えのお菓子、お花とその業種が集められた通りが寺町通りなのです。

さらにこの通りは河原町より少しだけ西。河原町通りに関係する川は鴨川です。鴨川は浅く、氾濫が起きやすかった状況でした。そのため、秀吉公が移転と同時に命じたのは、塀を築くこと。この命のおかげで、それまで寺町以西にまで影響のあった床上浸水が塀のもたらす堤防の役割で防止できるようになったとのことです。

本能寺の塀

また、現在市役所前となっている理由は、市役所が元々本願寺の敷地だったところを、明治になって土地を召し上げられたからだとか。市役所前に本願寺があるのではなく、本願寺の元敷地に市役所ができ、そこに地下鉄が通って市役所前の駅ができたという順番ですね。

なお、なぜ東寺や本願寺といった豪壮なお寺は昔から同じ場所にあるのかについては。そういったお寺は官製。民間は移動させられたというほろ苦い世の中だったとのエピソードもありました。

本能寺でのお焼香は3回 それぞれ誰のため?

次は、本堂に移動して、本堂の中でお焼香をさせていただく希少な機会を賜わります。

お焼香は3回、1度目は自分のため、2度目は信長公のため、3度目は明智光秀氏のためにお焼香して下さいとのこと。本能寺の変の舞台であっても、亡くなった後は全ての人の安寧を祈るのが仏教の教えに通じるとのことです。

本堂

なお、本堂の中は撮影禁止ですが、当時の火縄銃を触るという体験をさせていただけます(もちろん火薬が入っていませんが)。

『戦いの火蓋を切る』の言葉の元となる火蓋は火縄銃の火蓋です。その火蓋を切るという動作(レバーの移動)も経験できました。

閉門後貸切の大寶殿宝物館見学

さて、この特別拝観が夕刻に時間設定されていたのには理由があって。一般客の訪れない閉門後、貸切で宝物館見学をさせていただけました。

展示場の中に入る手前は写真撮影できます。甲冑と刀剣(レプリカ)の記念撮影ができるようになっていました。

甲冑と刀剣

そのお隣には三公の人形が。

三公の人形

刀剣『薬研藤四郎』と『実休光忠

展示場の中は、希少な刀剣類や宝物を見ることができますが。今回の特別拝観の主テーマである刀剣は2種類。いずれも織田信長が最期まで帯剣したとされているものです。

一つは『薬研藤四郎』(やげんとうしろう)。ネットで調べると実物情報よりもゲームキャラクターの情報が上位に出てきてしまう短刀です。

この短刀には室町時代の主人の腹は切らないという不思議なエピソードがあります。

家宝として保持していた畠山政長氏が当時、切腹する時にこの刀を腹に3度突き立てても切れない。しかし苛立って鉄瓶に向かって投げたところ鉄瓶を斬りつけたというものです。

この短刀(復元)は周囲を全てアクリルに覆われた状態でアクリルの全ての角度から眺められるようになっています。刀剣をガラス越しにみる場合、正面など特定の角度からしか見ることができないのがほとんどですが、こちらでは一人づつ椅子に座って眺めまわすことがかのうとなっていました。

もう一つは、写真撮影出来る 『実休光忠』(じっきゅうみつただ)。織田信長が最期まで帯剣されていたとされる名刀です。実休とは戦国武将の三好実休氏、光忠は備前長船(びぜんおさふな)派の名工、長船光忠氏の名前です。

なんと持ち上げ姿の記念撮影もできます。刃はもちろんつぶされていますが。10kgもの刀剣を持ち上げて見る機会希少でした。

実休光忠

唐銅香炉『三足の蛙』と授与されたお守り

さて、特別拝観の最後は、三足の蛙についてです。

宝物館の展示場に設置されているものは撮影不可ですが、ロビーに撮影OKと書かれているおそらくレプリカがありました。

三足の蛙

この三足の蛙。まずは『この蛙大人だと思いますかか?子どもだと思いますか?』のお決まりらしきクイズがあって。

正解分からない方いないと思いますが蛙の子どもはおたまじゃくしですので、もちろん大人が答えです。

さらにクイズ。この香炉の三足の蛙。実は本能寺の変の朝に鳴いたというエピソードがありますが、さて、どう鳴いたのでしょうというもの。

答えは『ゲロゲロ』。

ゲロが2回で逃げろと鳴いたというものでした。

で、ここ香炉にかけると鳴き止んだという金蘭でできたという布地が、今回の参加者全員に授与されたお守りに利用されているとのことです。

御守

常設 大寶殿宝物館に髭のない信長公の肖像画

今回の特別拝観でなくても見ることのできる大寶殿宝物館(大人500円)。そこには、刀剣以外にも見どころがあり、中でも髭のない信長公の肖像画はイメージが全く異なるので必見かと思います。

常設 信長公とお茶会

この大寶殿宝物館には、お茶碗類も展示されていましたが、信長公が起こした茶碗バブルのお話も教えていただきました。

信長公がお茶会を行ってのにはワケがあります。

戦を起こすと実際に戦う多くはお百姓さんで、戦によってせっかくの田畑が衰退してしまいます。そのことを避けるため、信長公は茶会を催して、出席者を味方、欠席者を敵と見做すとして無用な戦は避けるようにしていたとか。そして、茶会に使われるお茶碗のお値段は?とクイズ。

答えは城一つ分。報奨として授けることを目的として、茶碗の価値を高めたそうです。

常設 信長公の廟では太刀を供養

今回の特別拝観では本堂から見せていただいただけとなりますが、本能寺には三男織田信長公の廟があります。

信長公の廟は全国で20箇所もありますが、そのうちの一つ。三男信孝氏の依頼状に基づいて作られたもので、お寺の移転に合わせて移転されました。遺骨ではなく太刀が供養されているとのことですので、本能寺に行かれた時には本堂と合わせてお参りを。

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